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師曰く、

「英語がペラペラに話せても、「何を」の内容がなければ意味がないでしょう。
 教養を積みなさい。自分自身を広げなさい。」


私は高校生の時、先生にこの言葉をいただきました。
確かに今、話す内容をもっていなければ、
そして、言葉を発する基盤としての教養をもっていなければ、
英語が話せることに何の意味もない と痛感しています。

この「教養」の中に、近現代史が含まれます。
今の世界を作っている基になった大きな出来事です。

学校の歴史の授業で「独立戦争」「植民地政策」など、誰もが学びます。

でも多くの人にとって、これらは紙の上の厄介な暗記せねばならない科目でしかないようです。


歴史は、 特に近現代史は今とは無関係の過去の出来事ではなく、
現在の西洋文化を、世界をつくっている大きな土台であることとして認識してゆく必要があるでしょう。


ということで、
今日は「オーストラリアの歴史(1786~1901)」をご紹介します。

*****

次の四枚の絵は、
アートのやすたけ先生が描いて下さった「オーストラリアの植民地政策」を視覚化したものです。
オーストラリア百年の歴史をイラストレーションにしたものです。

この赤はアボリジナル、この緑はイギリスの入植者の人口です。
この色の面積比はそのままアボリジナルとイギリス人の人口比を表している、というように読み取れます。


1786年~1810年
オーストラリアの歴史1

イギリス人で、オーストラリアの大陸に初めて寄港したのがキャプテン・クックです。(1767年)

イギリス国王は1786年ここに 「流刑植民地」 を建設することを命じます。
つまり、島流しの刑 としてイギリスから囚人を送り始めたのです。

このとき、アメリカはイギリスから独立し、イギリスが経済的に大きな打撃を受けていました。
(イギリスとアメリカは戦争の末、1776年に「アメリカ合衆国」が誕生しました。) 

イギリス国内で流刑判決を受けた囚人は、それまで労働者としてアメリカに送られていました。
しかし、アメリカが独立したためその代替地が必要となります。

1786年1月26日、イギリス船(約750人の囚人を含む1000人)がオーストラリアに到着し、流刑を開始ます。

この囚人たちが、新大陸に文明の物質的な基礎を築く重要な労働力となりました。
そう、家を建て、橋を架け、設備を整えるためには、人の労働が必要なのです。

1805年(25年後)には、イギリス人の総人口は約7000人になり、
穀物の自給に成功し、ヨーロッパから持ち込まれた羊の数も約2万頭に達します。

オーストラリアといえば羊ですが、そもそもヨーロッパから持ち込まれた動物なのです。

1810年~1850年
オーストラリアの歴史2

1810年から15年にかけて植民地の人口は倍増します。

囚人労働力を利用して多くの公共建築物をつくり、都市の基盤整備を進めていきました。
しかし、オーストラリアに 文明の物質的基盤が整っていくと、
オーストラリアの流刑植民地としての役割転換の時がやってきます。

1820年代後半から、オーストラリアは流刑植民地ではなく
英領植民地としての地位を得ることになります。

31年から50年の間、イギリス政府から渡航資金援助を受ける補助移民が、囚人にかわって移民の最大集団になります。


1850年~1875年
オーストラリアの歴史3

1851年、ゴールドラッシュの開始です。
オーストラリアで莫大な量の金が発見されたのです。
50年代から70年代の間、羊毛をしのぎ金がオーストラリアの最大輸出品目となります。

ゴールドラッシュで、51年以降、オーストラリア内各地から、そして世界中(アメリカ、西欧諸国、中国)から金鉱地に人々が殺到してきました。

ヴィクトリアでは8万人の人口が50万人に、
ニューサウスウェールズでは19万人が35万人に急増しました。

また、金鉱地ばかりでなく、オーストラリア大陸内の他の植民地も経済成長をしていきます。
同時に、オーストラリアの政治の上にも変化を及ぼし、オーストラリアの中にアメリカと同様、自治独立への意識が芽生えはじめるのです。

左上に描かれているのがイギリスです。
1851年には世界初の万博が開かれました。
産業革命真っ只中のイギリスは、これまでにない経済発展を経験していたのです。


1875年~1901年
オーストラリアの歴史4

1800年代後半から1900年にかけて、オーストラリアの経済成長は続いていきます。
その成長の象徴といえるのが鉄道です。

1860年に総延長500キロ程度であった鉄道は、世紀末までに1万7000キロに達します。

現在主要都市にあるタウンホールや郵便局、教会、博物館などは、
ほとんどすべてがこの時代に建てられたものです。

電信線も設置され通信が一日で可能になり、オーストラリア大陸内の時間も統一されます。
1870年代から、無償の初等義務教育が導入されはじめます。

こうして、オーストラリアは名実共に文明国の仲間入りをし、1901年には連邦が成立します。


  私たちが知る現在の「オーストラリア」の基礎は、この100年間に作られたのです。


<最後に>
このような「発展」の裏に、悲しい事実があることを忘れてはなりません。

1枚めと4枚めを比べてみてください。赤い大陸であったものが緑の大陸にかわっています。わずか100年で、4万年もの間この大陸の主人であった一種族が、ほぼ絶滅寸前になってしまったのです。

それは、無制限に移入してきた人や動物がもたらしたものです。免疫のないアボリジナルは、天然痘や麻疹で次々と死んで行きました。また、入植者たちの中には、カンガルー撃ちと同様にアボリジナルを狩猟というスポーツの対象にした者さえいました。

このように、「植民地政策」には、もう一つの悲しい事実があるのです。


*****
オーストラリアだけではなく、アメリカやカナダ、アフリカ大陸の国々など、多くの地が「植民地」の歴史を持っています。

こういった知識は
「世界史とってないから」「受験にないから」
という言い訳がきかない重要な認識です。


世界のスタンダードとしての教養をもつこと、青樹会ではその部分を大切に考えています。

(MASAMI)
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2011.07.22 Fri l 青樹会の教育方針 l コメント (0) トラックバック (0) l top